Canicule 2003

フランスに渡って1年半余りが過ぎた2003年8月のバカンスシーズン。バカンスに出かけたパリジャンたちと入れ替わりに、パリは多くの観光客で賑わっていた。

 

当時、観光の仕事をしていた私が耳にするのは、テレビでも街中でも観光客からも酷暑のことばかり。アフリカ大陸からの熱波でフランスはかつてないほどの酷暑に覆われていた。

普段のパリの暑さは太陽の光線が突き刺さる暑さだから、空気が乾燥していて日陰は比較的涼しい。

湿度が多いジトジト茹だるような日本の暑さとは違っている。

この年の暑さはナイフか矢で刺されるようなカラカラの暑さだった。

 

私たちが住む10階のアパルトマンには居住面積よりも広い?テラスがあり、夫は仕事から帰ってくるとせっせとテラスに水撒きをしていた。

水は撒いたすぐに蒸発して、テントを張りだしても何の役にも立たなかった。

同僚がアパルトマンのシャッターを閉めきってると話してるのを聞いて、私たちも朝シャッターを閉めて仕事に出かけた。

帰ってくるとシャワーを浴びて炭酸水をがぶ飲みした。

幸いにも私たちには扇風機があったので幾分しのげたが、平年の夏はそこまで暑くならないので、クーラーはもちろんのこと扇風機を持っていない人がほとんどだった。

酷暑が始まってすぐに、寝付けない夫は独身時代に使っていたマットレスをテラスに出して、テラスで寝るようになった。

私は何とか室内で寝ることができたが、10階から周辺を見渡すとテラスやベランダがある人は皆同じように室外で眠っていた。

こんな光景が見られたのも2003年の夏ぐらいだと思う。

 

死者の数も万単位、ほとんどが高齢者だったが、バカンスで国を離れていた閣僚たちが緊急事態にも関わらずすぐに帰国しなかったことを問われ、翌夏はバカンスを国内で過ごすよう閣議

決められと覚えている。

 

日本の暑さに慣れている私にも苦しい夏だったが、今の日本の暑さも以前とは比べ物にならないほど厳しい。

毎年熱中症の話になるとあの2003年の夏のことを子供たちに話し聞かせると同時に、今世紀に入る頃母が地球が怒っていると話していたことを思い出す。

 

キャロリーヌ

モントリオールのことを書いていてキャロリーヌのことを思い出した。

 

私がモントリオールについたのは11月下旬だった。見渡す限りすべてが雪に覆われ、滑り止めのために通りいちめん塩が撒いてあった。北海道から来た人は知っていたのだが私はそんなこととは露知らず、日本から履いていった黒の革靴は粉をふいてしまった。お気に入りのおしゃれな靴だったのに残念なことをした。

 

街の中心にある私が通う語学学校では英仏の2か国を学ぶことができた。授業はすべて英語かフランス語で、6人ほどのクラスを文法と会話の先生がふたりで担当していた。私のフランス語クラスの先生のひとりがキャロリーヌだった。きっと私と同年代の20代でスラッと背が高く、金髪でショートカットの美人だった。

 

大学の第二外国語でフランス語を学んだ私は、教育テレビでもテキストを買って毎回勉強していたから、意味は分からなくても読むことはできた。それをとても不思議がられた。ただまだ口から言葉は出てこなくて、クラスメートもきっと私が恥ずかしがりやだと思っていたに違いない。

 

文法の授業で「化学」と「細身」を同時に習った日、授業のあとでカロリーヌに「あなたは化学ね」と言ってきょとんとされた。「あなたスリムね」と言いたかったのに間違えてしまったのだ。それがきっかけで私たちは仲良くなった。

先生といっても先生然とした人はおらず、生徒にも社会人がたくさんいて、中には70歳の神父さんまでいた。

皆がフレンドリーで、和気あいあいの国際的な雰囲気が学校全体を包んでいた。校長の奥さんは中国人でフランス語はわかるけど話すのは英語オンリーだった。

戦時中の体験を語るフィリピン人、有名自動車メーカーに勤める父を誇りにしている若い韓国人、一家で永住を目的に渡ってきたベトナム人、農園主の金持ち子息令嬢のメキシコ人、カリブ海で新婚旅行中に強盗に兄を殺害されたカナダ人などいろんな人が学校にいて、いろいろな体験話を聞かせてくれた。

 

そんな中で私は言葉が出てこないもどかしさからある日、悔しくて悲しくて涙が溢れてきて止まらなかった。

ベッドでホームシックに泣くことはあっても、授業中に泣いてしまうなんてまったくの大失態だった。

キャロリーヌはわたしを抱きしめ、背中をさすってくれた。クラスの皆が言葉がが出てくるのは時間の問題だから、ホームシックなんだねと慰めてくれた。

キャロリーヌが翌日私にスクラップブックをくれた。中には私が好きなスイーツの写真やらレシピに、モントリオールのおすすめスポットの写真も貼り付けてあった。

いつの間にこんな素敵なプレゼントを用意してくれたのか尋ねると、昨夜ボーイフレンドと一緒に一晩で作ってくれたらしい。感動しまくりでまた涙がこぼれ落ちた。

 

その後しばらくして人員削減のために彼女は学校を去って行った。

大切なものを引っ越し前に日本に送っておこうと、期限切れになったパスポートやそのスクラップブックも入れて小包で送ったのだが、数週間後に段ボールだけが中身紛失のメッセージと共に私のもとへ送り返されてきた。

 

キャロリーヌとの出会いは、一期一会の大切さを教えてくれる素敵な出会いだった。

フランス人の夫との出会い

夫とは2000年の6月にパリで知り合った。

 

仕事で英語とフランス語を使うので、前年からの年次休暇も合わせて1ヶ月の休暇を申請してみた。まだ入って一年しか経っていない職場だったが、語学力向上の名目だったから上司も納得してくれて、私の休暇代理のスタッフを捜すように指示してサインをくれた。

 

パリには以前も住んでいたことがあったから土地勘はあったし、ステイ先は現地に着いてから学校の近くにでも借りようと思っていた。

ソルボンヌの短期語学は長年やりたいことリストに入っていて、やっと念願が叶ったのだった。

最初の数日は学校の近くにホテルを取っておいて、まずは学校でレベルテストを受けると同時に滞在先の情報を集めることにした。

学校の近くといってもリュクサンブール公園を挟んだ先の15区にあるホテルだったから、5区にある学校までは徒歩よりはメトロかバスを使う距離だった。

スーツケースも大きかったし空港まで迎えに来てもらえるサービスを日本で頼んでおいて、夕方無事ホテルに到着した。

3つ星だから本当はもう少し大きなホテルを期待していたんだけど、立地は抜群だった。

 

翌朝、1階で待望のクロワッサンとカフェオレ、それに卵やハムにヨーグルトとキウイなども揃った朝食をとっていると、入り口からボンジュール言いながらツカツカと勢いよくフロントへまっしぐらに入ってきた男性がいた。

フロントは私の後ろにあるツイタテの向こうだったから姿は見えないんだけど、その男性が夕べ私のチェックインをしてくれた若いアルバイト君を怒鳴り始めた。どうやらアルバイト君、何かミスってしまったらしい。

朝食をとっていたのは私だけで、しかもツイタテで隠れていたから客がいることに気づいていなかった。

バイト君が叱られしばらくして穏やかに会話しているのが聞こえてきた。夕べの報告をしてるのかな。その男性、今度はキッチンのスタッフに挨拶するため入って行こうとして初めて私がそこにいたことに気づいた。こちらを見ながら挨拶しながらだったからドアを開けそこねて頭をゴッツンしてしまった。すごくばつが悪そうに苦笑いしたその男性が、私の今の夫だ。

彼はそのホテルのディレクターだった。

 

学校へ行くと初めはホームステイを勧められたが、日本人を希望するホストファミリーは日本人がお人好しなのをあてにしているケースが多々あるのはカナダで経験済みだった。何となく気乗りがせず、以前クレルモンフェランにいたときのように学生寮があったらと希望を伝えてホテルに戻った。

彼はフロントに座っていて私の1日がどんなだったか、どうしてパリに来たのかと聞いてきた。彼にしてみればすべてのお客様に対してする質問だが、私は短期間中にフランス語を最大限に話す格好の練習場とばかりに喋り続けた。彼はそれを楽しんでいるように私の話に付き合ってくれた。

バイト君に大声あげてた人とは思えないほど、優しい目をしていた。

 

ジョイス

モントリオールに滞在中、ジョイスという香港からの留学生の女の子と仲良くなった。今は香港情勢が話題になっているから、彼女のことを思い出す日も多い。

 

ジョイスとはモントリオール中心街にある語学学校で知り合った。彼女は英語力アップのためにモントリオールに来ていて、背が高く、眼鏡をかけ、化粧っけがなく、髪はショートカットで気さくで明るい女の子だった。女の子と言っても私と同い年の当時26才の女性だけど。

私は最初のホストファミリーと相性が合わず、ジョイスが何かと相談にのってくれ、彼女の紹介で会ったファミリーの家に引っ越した。

香港では皆が通称のイングリッシュネームを持っていることはジョイスが教えてくれた。

 

学校にもすっかり慣れた頃、クラスで茶道の紹介をしたいと思った。

母が日本から茶道具一式を送ってくれたのだが、届いた茶碗は割れてしまっていた。小包を開けているところにジョイスもいて、どうしてもっと割れないように梱包しなかったのかと言っている。

母は私がカナダへ経ってからは毎日泣き通しで、妹が娘がまるで1人しかいないかのようだったとのち語ったほど私のことを心配し、何かにつけて日本のものを送ってくれていた。

そんな母だから割れないように念入りに梱包してくれていたのに、ジョイスのデリカシーのなさに腹が立って悔しくて「ちゃんと梱包してくれたけど割れちゃったのよ‼」とは言ったものの、涙が溢れてきてそれを隠すために自分の部屋にしばらく閉じこもった。

皆は私がホームシックだと思ったらしい。それもあるけどジョイスの言葉に怒っているとは、紹介してもらった手前あまり言えなかった。

その後、他の茶碗を使って無事にお点前を披露することができ、クラスメートたちは見たこともない日本文化に感動しとても喜んでくれた。

 

ジョイスは学校が終わってから私のステイ先で家事のアルバイトをしていた。学費の足しにしていたのである。

私も留学のために3年の間社会人として働いてきたからとても共感できた。

彼女が来ている日は遠慮して帰宅時間をずらしていた。

だけど、あの一件のあと一度だけジョイスがいる時間に帰宅した。

何か仕返ししたいという意地悪な心があったのだけど、すぐに後悔した。

彼女の気まずそうな感じが伝わってきた。やっぱりこれからは気をつけようと思っていたところをホストマザーから注意された。

ジョイスが言いつけたのかな?と思った。以来、自然と彼女も私に積極的に話しかけてくることはなくなった。

顔を合わせると話をすることはあったけど、遠慮のない彼女の話し方はやっぱり苦手だった。その反面それも文化なのかしらと香港にある種の興味が湧いた。

 その後また引っ越して大学へ移った私がジョイスに会うことはなくなったが、彼女に出会ったことがきっかけで数年後に香港を訪ねることとなった。

 

出会いってほんとうに不思議だな~。

モントリオール

ちょうど30年前の今頃、モントリオールの語学学校でフランス語文法の勉強を終え、コンコード大学で英語の勉強をしていた。

 

フランス語習得のためにモントリオールへ行ったのだが、フランスへ行く予定なら会話は学んではいけないと言われた。今のようにインターネットなどない時代だから、学校探しも留学の手続きも時間をかけて念入りにしたつもりだったが、カナダのケベクワ(ケベック州のフランス語)とフランスでのフランス語は相当かけ離れているらしいと知ったのは現地についてからだった。

社会人になってからの留学だったし、大学で語学を専攻したわけでもなかったので情報不足だったのは否めない。

 

仕方なくフランス語は文法だけを学ぶことにして、日常は英語で生活することになった。英語も何とかわかるけれど話せるレベルではなかった。幸いなことにフランス語クラスにいるのはイングリッシュスピーカーばかりだったから、クラスメートが私の英語力アップに貢献してくれた。

訛りの強い初老のカナダ人からフランスやモロッコ出身の先生、中には在日経験があって日本人女性と結婚しているモントリオール出身の先生もいた。

 

さすがに英語とフランス語が公用語の国カナダ、モントリオールでは2つの言語が飛び交い、語学に関心があるから複数の原語を話せる人がたくさんいたし、世界中から人が集まっていた。

大学ではコロンビア、ベネズエラ、エジプトやクウェートのクラスメートもいて、遠くに感じていた中南米や中東も身近に感じるようになった。

 

このときの留学で初めて自分が日本のことを知っているようで、人に説明できるほどには何も知らなかったのだと気付いた。

フランスで会った長髪美人

日本に帰ってきてもうすぐ9年になろうとしている。

帰国後しばらくして夫とフレンチカフェをオープンした。

 

フランスではパリで3年過ごし、娘が生まれてすぐにルーアンというパリから電車で1時間ほどの街にホテルを購入し、夫と経営していた。

夫はイギリスのホテル学校を経て20年近くホテル一筋だったから、いずれ独立したいと思うのは自然な流れだった。

私たちのホテルは駅と中心街の中間にあり、3つの美術館や公園のすぐ近くで観光客にもビジネスマンにも人気の場所だった。

ある日の午後、いつも通りにフロントで番をしていると、腰よりも長いストレートヘアの綺麗な日本人女性が現れた。私たちのホテルは日本のガイドブックにマダムが日本人と紹介されていて、韓国語版もあったので日韓のお客様がチラホラ来てくださった。

この長髪美人のお客様は、近くのアリアンスフランセーズで明日試験を受けるためにパリからルーアンに来られたということで、夜になる前に付近を散策したいという。

私の大好きな大聖堂近辺の細道を地図上に線を引きながら説明したのをよく覚えている。

後日パリから丁寧な礼状をいただいた。ホテルでの居心地の良さと私の散策道順が完璧だったと褒める内容だった。

ホテル業は24時間ノンストップで大変だけど、お客様に喜んでいただけると本当に嬉しい。

その時の手紙は今も大切にとってある。

 

日本でオープンしたカフェにその時の日本人とと同じような髪を持った女性が現れた。会計時に、フランスでホテルを経営していた頃同じような美しい髪の女性が来られたという話をした。彼女は「それ私です!」ビックリした私は一瞬言葉も出なかったが「キャー‼」と叫んでふたりで鳥肌立てて跳び跳ねた。その様子に周りの人や夫も目を丸くしていた。

彼女は引き続きパリに住んでいるが、父親が亡くなられたので帰国していた。相続の関係でカフェ近くの証券会社を訪れ、私たちのカフェのことを聞いて来てくれたらしい。

手紙を今も大切にしていることを伝えると、彼女は嬉しそうに再度あのときの私の案内を褒めてくれた。

 

世界は広いようで実は狭いんだなあと、その時つくづく感じた。

漢字が苦手な息子

いつも通りにリビングへ降りて行く。階段下では中学生の息子が私にキスするために両手を広げて待っている。もう少し下がって待っててくれると降りやすいのだけど、可愛くて仕方ない。いつまでこんな風にしてくれるのかな。

 

学校へ行く準備をしながら「ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、ここのか、とうか」と確認するように私の顔を見ながらゆっくり言っている。「もう一つあったよね。はつか」

日本語、特に漢字は苦手で、おしゃべりは大好きだけど読み書きはあまり好きではない。そうなることは何人かの帰国子女を見てきて、覚悟はしていた。

漢字はなかなか簡単に覚えれるものではないから、娘の小学校入学に間に合わせようと日本に帰ってきた。日本語の会話を聞く機会が限られる娘と息子はボキャブラリーが少ない。でも時間が解決してくれると信じてフランス語で話してきた。

 

そうだよね。教科書の中に書いてないようなことは特に難しいよね。

先日も日本語での数の数え方について娘と話し合ったけど、物によって何本、何枚、何匹、と使い分けないといけない日本語って本当に複雑「パパがさじ投げるのわかるよね~」

 

息子は「この前自分の誕生日がうまく言えなくて恥ずかしかった」と言う。

休校中は「フランス語の読み書きができないのを馬鹿にされた」と悔しがって、フランス語の文法と読み方を一緒に勉強した。

ハーフだからどちらの言語もペラペラ、そして何故か英語も得意なのが当然ということになっている。悔しい思いをいっぱいしてもめげずに頑張ってる。たくましいな~。